クラブからのお知らせ

高知航空秘話(本田技研社有機パイパーペイサーと高知空港の知られざる関係)

皆さんはパイパーペイサーという機体をご存じでしょうか。
PA-20 PACERはパイパーエアクラフト社がフラップ及び操縦輪を装備した機体としては第二次大戦後に最初に開発した高翼、尾輪式、4人乗りの軽飛行機です。本田技研工業が初の社有機として昭和28年に導入したのがこのパイパーペイサー(JA3076)でした。

このたび高知空港の歴史や撃墜王赤松貞明中尉について調査研究されておられる福井正洋様が「高知航空秘話-双子機により残された空港-」というレポートをまとめられましたのでご紹介させていただきます。少々長くなりますがお付き合いください。

2020年6月に福井様より当クラブのホームページにお問い合わせいただいたのが福井様と当クラブのお付き合いの始まりでした。
以下がこの時のメールです。

メッセージ本文:
初めてメールをさせていただきます。
私は高知県で地元高知空港の歴史について調べている福井と申します。今回ホンダフライングクラブ様にお教え願いたい事があり、お問い合わせをさせていただきました。教えていただきたい事は本田宗一郎氏が乗られていたパイパー・ペイサーについてのお話です。

私が調べております高知空港は民間運用が始まった当初運用会社が西日本軽飛行機協会という1社のみで、それも資金難で航空機の購入にも苦労する飛行場でした。

当時の会社関係者の証言調べる中で、この会社と同じ時期に同じ機体「パイパー・ペイサー」を購入しようとしていた本田宗一郎氏が陰ながら資金援助をしてくれていたとの感謝を述べる証言を見つけました。
この航空機購入をきっかけに本格的な民間空港としての運用が始まり、現在は高知県唯一の空港として県の空の窓口となっております。

このことに驚きつつも本田宗一郎氏であればさもありなんと思い感動しましたが、関係者の証言のみでは確証も無くお問い合わせをさせて頂きました。

〈中略〉

突然のお問い合わせ申し訳ございませんがお教えいただければ幸いです。

視利研 福井 正洋

 本田技研のペイサー購入当時(昭和28年頃)のいきさつなど本田技研側からの情報が欲しいというお話でした。しかしながら当時を直接知る方々はすでに皆様あちらの世界へ行かれており、あと10年早ければと悔やまれました。

そんな中で大変に有益な情報をお持ちの方がいらっしゃいました。株式会社ホンダエアポート(現本田航空株式会社の前身)設立当初の支配人であった永瀬雅子様です。永瀬様は㈱ホンダエアポートの初代社長の河島喜好氏(後の本田技研2代目社長)とともに会社を取り仕切ってこられ使用事業免許取得や桶川の飛行場開設などに大変なご尽力をされました。
社有機のパイパーペーサーは広く本田技研の宣伝広報活動に使われていたこと、ほかにも軽飛行機設計募集や南極探検など朝日新聞とは深くかかわっていたこと、宗一郎氏と東大の佐貫亦男先生とは戦争中からの付き合いだったこと、事業免許取得に大変なご苦労をされたこと、などなど大変に興味深い情報をいただくことができました。中でもパイパーペーサー購入の記述のある技研社史や技研弘報などの資料を発掘していただき本田側からも有意義な資料を提供することができました。

福井様におかれては高知側からの情報のみならず日本航空協会へ問い合わせたり航空局の航空機登録原簿を取り寄せたりとさらに精力的に情報収集に努められました。

2021年11月には福井様にはわざわざ高知より、永瀬様にも古巣のホンダエアポートにお越しいただき、本田航空㈱社長の嶋津和真様、当クラブ会長の濱尾豊と和やかな中にも大変有意義な情報交換の場を持つことができました。その際嶋津様より本田技研本社へも訪問できるよう調整していただけることになりました。

そしていよいよ12月には本田技研本社総務部へ訪問され技研側からも協力がいただけることになりました。

その結果完成したレポートが次のものです。
高知と本田技研との取引が事実であったことは確認できたものの、その取引に宗一郎氏から高知への資金援助の意図があったかまでは根拠が見つかりませんでした。
しかしながら、『戦後の復興期、再び空を目指した旧軍搭乗員達、空への挑戦を始めたエンジニア達の情熱により今も確かに高知空港は存在しているのだ。』ということは紛れもない事実です。

高知航空秘話ー双子機により残された空港

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